北方領土の歴史
1945年(昭和20年)日本がポツダム宣言を受諾したあと、ソ連軍(第2極東軍)が進撃、千島列島から領土を開始し9月5日までに択捉、国後、色丹、歯舞群島を不当に占拠しました。
北方領土は、我々の父祖が汗水を流して築いた地であり、一度も外国の領土となったことがない日本固有の領土です。
戦後70年が過ぎ、北方領土について今一度正しい歴史を学び、返還運動に取り組まなければならない時期にあります。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言が署名され、国交が再開されてから、一貫して北方領土の解決と平和条約締結を働きかけてきました。
1991年(平成3年)4月には、ゴルバチョフ大統領が来日し、18年ぶりに日ソ首脳会談が行われ、両国間で領土問題存在が認識されました。その年の8月にソ連は政変し、ついに12月には崩壊、新たにロシア連邦が樹立され、領土交渉は、新政府との間で継続中であります。
北方領土は、我々の父祖が汗水を流して築いた地であり、一度も外国の領土となったことがない日本固有の領土です。
戦後70年が過ぎ、北方領土について今一度正しい歴史を学び、返還運動に取り組まなければならない時期にあります。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言が署名され、国交が再開されてから、一貫して北方領土の解決と平和条約締結を働きかけてきました。
1991年(平成3年)4月には、ゴルバチョフ大統領が来日し、18年ぶりに日ソ首脳会談が行われ、両国間で領土問題存在が認識されました。その年の8月にソ連は政変し、ついに12月には崩壊、新たにロシア連邦が樹立され、領土交渉は、新政府との間で継続中であります。
年表
年 | 出来事 | 内容 |
1855年(安政元) | 日露通好条約締結 2月7日 | 択捉島とウルップ島との間を国境とし、樺太には境界を設けない。 |
---|---|---|
1875年(明治8) | 樺太千島交換条約 5月7日 | クリル諸島が日本領となる。 |
1905年(明治38) | 日露講和条約 (ポーツマス条約) 9月5日 | 北緯50度以南の南樺太が日本領となる。 |
1940年(昭和16) | 日ソ中立条約調印 | 互いの領土保全と不可侵を約束(5年間の摘用) |
1945年(昭和20) | ヤルタ協定 2月11日 | ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三国首脳が、ソ連が対日参戦を行った場合の報償を定める。 樺太南部の変換、千島列島の引渡しなど、(日本の参加してない協定であり法的効果はないとの公式見解) |
ソ連、日本に宣戦布告 8月8日 | 日ソ中立条約は、5ヵ年の有効期限があるのに無視したもの | |
ポツダム宣言受託 8月15日 | - | |
ソ連軍による千島全島の占領 8月18日~9月3日 | - | |
1947年~1949年 (昭和22~24) | 四島住民の強制的退去 | 当時四島には17,291人(3,123世帯)が居住していた。住民は小船で脱出、その他の人は拘留生活の後、強制的に退去。 |
1951年(昭和26) | サンフランシスコ平和条約 9月8日 | ソ連は、調印せず。日本は、千島列島の権利、権限を放棄 |
1956年(昭和31) | 鳩山首相訪ソ、日ソ共同宣言調印 10月9日 | この第9項に「日ソ平和条約締結後に歯舞群島、色丹島を返す。」とある。 |
1973年(昭和48) | 田中首相訪ソ、日ソ共同声明(モスクワ署名) 10月10日 | 北方領土問題は、平和条約の締結によって、処理されるべき問題であることを確認 |
1991年(平成3) | ゴルバチョフ大統領訪日、日ソ共同声明(東京署名) 4月18日 | 歯舞群島、色丹島、国後島及び択捉島の北方四島が平和条約において解決されるべき問題であることが文章上で明確され、加えて日ソ両国国民間の相互の広範囲で自由な往来を通じての善隣が平和的解決につながることなど確認された |
日ソ往復書簡 10月14日 | ビザ(査証)なし相互往来拘留という新しい枠組み設定確認、同月29日政府閣議了承 | |
1992年(平成4) | 北方四島在住ロシア人とのビザなし交流始まる 4月22日第1陣花咲入港 | 北方領土返還を進めるにあたり、相互交流の中からその雰囲気づくりをし、早期問題解決の一助とするもの |
1993年(平成5) | エリツィン大統領訪日、東京宣言 10月13日 | 領土問題は、歴史的、法的事実に立って、「法と正義」を基礎として解決する問題と、交渉指針を示す。 |
資料
- 北方領土の歴史(PDF形式:369KB)
このページの情報に関するお問い合わせ先
標津町TEL:0153-82-2131
標津町TEL:0153-82-2131